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第一次世界大戦のドイツ機

1915年8月1日、マックス・フランツ・インメルマンはフォッカー単葉で1機目の撃墜を記録した。8月19日にはオスワルト・ベルケが1機目の撃墜を記録した。同年の10月の時点でインメルマン5機、ベルケ6機という華々しい活躍をした。1916年初め、両人とも各8機撃墜に達したので、ドイツ最高勲章プール・ル・メリート(フランスに憧れたフリートリッヒ大王が創立した為、フランス語)を授けられた。一般にはこの勲章は青い十字で大王の名前にちなんでブラウエル・フリッツ(英語でブルー・マックス)と呼ばれた。1915年から1916年にかけての冬の時期はフォッカー単葉機が暴れまわった。相次ぐ被害にイギリスでは「フォッカーの懲罰」(fokker scourge)と恐れた。ノエル・P・ピリングは1916年3月の下院で、航空工廠は「フォッカーのまぐさ」(fokker fodder )作りにしか過ぎず、こんな機体に若者を乗せて戦場に送るのは殺人行為だと非難した。
しかし、連合国側の飛行機も性能が改善されてきて、F.E.2bやD.H.2、ニューポール11などを送り込んでくるとフォッカー単葉の時代も終った。1916年6月に入ってドイツのフォン・ゲルストフ男爵がフォッカーE3単葉で撃墜され、6月16日にはインメルマンがフォッカーE3で撃墜されてしまった。インメルマンは宙返りの頂点で半横転し、反対方向にターンするインメルマン・ターンの名前で知られる。(今日のインメルマン・ターンは当時のものと違うらしい)。イギリスのF.E.2bやD.H.2は推進式の機体だったが、ニューポール11は翼の上面に機銃を取り付け、プロペラ回転面外から機銃を発射できるようにしてあった。ドイツの機銃同調装置を真似しなかったのは、ホチキス機銃の性能が安定していないのと、機構がまだ信頼できなかった為である。

フォッカーE3型機
フォッカー単葉の次ぎドイツの主役になるのがアルバトロスD型である。アルバトロスD型は木製モノコック・ボディを採用した斬新な機体で、アルバトロスD1は1916年8月に完成し、上翼を下げて視界を改善したD2が配備されはじめた。エースのベルケは9月ごろからアルバトロスに乗り換え、16日間でデハビランドD.H.2を含む連合軍機11機を撃墜した。1917年1月からはD3が配備され、1917年4月はイギリス航空部隊だけでも368機、乗員500名以上を喪失して「血まみれの4月」と呼ばれた。アルバトロスD3はフランスのニューポール17のように1葉半で、急激な操縦や、急降下時などの高速時に下翼が折れてしまうという欠点があったため、リヒトホーヘンですら、一時ハルバーシュタットD2のような古い機体に乗り換えた時期があった。

アルバトロスD3型機
フォッカーDr.1はイギリスのソッピース3葉機に刺激を受け開発した3葉機で、レッドバロンことマンフレット・フォン・リヒトホーヘンの愛機として有名な機体である。ライバルのソッピース・キャメルより速度は遅かったが、小回りが効いた。
フォッカーD.7は第1次世界大戦ドイツ機の中で最良といわれる機体で、休戦条約の条項に連合軍もすべてのD.7を引き渡すように明記してあった事はこの飛行機の優秀性を証明している。性能的には特にスパッドS.13やS.E.5aなどより優れているという事はなかったが、低速、高高度で失速しにくく、未熟なパイロットの無理な操縦でも失速する事がないという特徴があった。

フォッカーD.7
爆撃機ではゴータG4が有名だ。ロンドン市民にとっては「ゴーサ」であろうこの複葉双発爆撃機は、ツェッペリン飛行船の後を引き継いでロンドン空襲の任務を請け負った。しかし、400kg爆弾ぐらいしか搭載できず、戦局に影響を与えるまでには至らなかった。
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