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偉大な冒険飛行/大西洋

1909年イギリスの新聞デイリー・メール紙は北大西洋無着陸横断飛行に1万ポンドの懸賞金をだすと発表した。条件は大英帝国のどこか1点とカナダ、ニューファウンドランド、アメリカ合衆国のどこかというもので、この中の最短距離でも3,000kmはあるので、大戦前の飛行機ではとうてい不可能な距離だった。しかし、大戦中の飛行機の進歩は著しく、技術的には可能性がでてきたので、1919年、改めて再提出され、にわかに各国の腕に自信のある飛行家たちが活気づいてきた。しかし、悪天候に見舞われやすく、当時はまだ計器も発達しておらず、有視界飛行に頼らなければならない状況で、まさに命掛けの危険な冒険であった。まずはアメリカ海軍のアルバート・リード少佐指揮のチームは、カーチスNC飛行艇3機は1919年5月16日ニューファウンドランドのトレパシー湾を離水し、途中2機が落伍したが、リード少佐機のみ、途中アゾレス群島に2回着水しながらも12日間かかってようやくリスボンに到着した。そして、始めて無着陸で大西洋を横断してデイリー・メール紙の懸賞をものにしたのは、イギリスのジョン・アルコックとアーサー・ブラウンの2人のチームで、1919年6月14日〜15日、ビッカース・ビミー機により2人はニューファウンドランドからアイルランド西海岸のクリフデンまで3,040kmを16時間27分で飛行した。2人はサーの称号まで贈られた。
1927年5月20日〜21日にはアメリカのチャールズ・リンドバーグがライアンNYP単葉機「スピリット・オブ・セントルイス」号により、ニューヨーク〜パリ間5,809kmを所要時間33時間30分で見事に飛行した。初めての単独北大西洋無着陸横断飛行で、ニューヨーク〜パリという2大都市を初めて連絡した飛行なので、世紀の人気者になった。
アルコック&ブラウンも、リンドバーグも追い風になる東向きの飛行で、逆の向い風になる西向きの横断飛行は更に難関だった。リンドバーグの成功のわずか2週間前、パリからニューヨークを目指したのはフランスの第1次世界大戦のエース、シャルル・ナンジェッセーと航空士のフランソワ・コリの2人で、1927年5月8日、パリのルブルジェ飛行場を離陸したルバッスールPL8ワゾー・ブラン「白鳥号」は、ル・アーブルまで護衛を受けたが、それを最後に消息を絶ってしまった。1928年4月12日〜13日、ドイツのキュンター・フォン・ヒューネフェルト男爵、ヘルマン・ケール、ジェームス・フィッツモーリスの3人はユンカースW33型「ブレーメン」号によりアイルランドのバルドンネルからカナダのラプラドル東海岸まで3,100kmを飛行して、初の西向きの北大西洋無着陸横断飛行に成功した。
1919年から1928年までの間、東向きコースで挑戦したのは22回で、成功8回、西向きコースでは20回の挑戦で成功1回という正に危険な冒険飛行であった。
リンドバーグと逆のパリ〜ニューヨーク間を最初に飛行したのはフランスのデュドネ・コストと航法士モーリス・ベロントの2人であった。1929年7月13日にブレゲー19改造スーパーTR「ポワン・タンテロガシオン(疑問符)」号は挑戦したが、途中、悪天候と燃料消費率が気になり、途中で断念して14時間後に引き返した。その後、9月27日に51時間19分、7,905kmの世界長距離記録の新記録を樹立してから、1930年9月1日に再挑戦する事にした。ル・ブルジェ飛行場を離陸して37時間18分の飛行の後、ニューヨークのカーチス飛行場へ着陸した。

カーチスNC-4飛行艇

ビッカース・ビミー

「スピリット・オブ・セントルイス」号

「ブレーメン」号

「ポワン・タンテロガシオン」号
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