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ファルマン兄弟

アンリ(兄)とモーリス(弟)のファルマン兄弟も航空の歴史に名を残す兄弟である。
父親は新聞記者の特派員としてパリに定住したので、アンリは英語は話せないけど国籍はイギリスだった。後に1937年にはフランス国籍を取得した。アンリは初め自動車レースに熱狂していた。1902年パリ〜ウィーン間のレースでは70馬力パナード車で重量車クラスで優勝しているらしい。その後、1894年頃から気球乗りの名人として活躍していた弟のモーリスの誘いでアンリも気球に乗り始める。1904年ルポーディ飛行船の乗員となり、グライダー実験なども行うようになり航空への関心を高めていく。
1907年にアンリはボワザン兄弟に飛行機を発注した。それがボワザン・ファルマン1型機だ。しかしアンリはこの飛行機の性能に満足せず、いろいろと改良を施して研究した。ボワザン機は箱凧を参考に作られているので縦の固有安定が強すぎ、補助翼がなかったので旋回する時は方向蛇のみに頼らなくてはならず、旋回の外側の翼上面の速度が内側の翼上面より速度が速くなるので機体がらせん状に内側に突っ込むか、横滑りを伴う危険な飛行であった。そこで、水平尾翼の面積を小さくし、主翼には上反角を付けて横安定を強くして、旋回時の外側の翼の揚力が増してバンクする傾向を抑えた。この機体はボワザン・ファルマン1型改またはアンリ・ファルマン1型と呼ばれ、この機体でフランス航空クラブ監督の下、アンリは1908年1月13日、ヨーロッパ最初の1kmの周回飛行に成功する。時間は時間1分28秒だった。アメリカのライト兄弟は当時、もっとすごい記録を作っていたが、商談の為に秘密主義を通し、大衆の前では飛行しなかった(盗用を恐れて)ライト兄弟はフランスでは嘘つきだと思われていた。
次ぎにアンリ・ファルマンは補助翼をつける改良を行なったり、主翼にサイドカーテンを付けたり、上翼の上にもう1枚の翼を付けて三葉にするなど、色々な実験を行って飛行機設計の知識を身に付けていった。そして、アンリ・ファルマンはボワザン兄弟に対してそれまでの知識を盛り込んだ改良型の機体を発注したが、ボワザン兄弟は完成した機体を勝手にイギリスのムーア・ブラバゾンに売ってしまった。ファルマンはこのボワザンの不信行為に怒り、自分で飛行機制作工場を作って飛行機を制作する決心をする。完成したファルマン3型機(ボワザンに発注した機体を2型とするため)は箱型翼に固執して旋回性の悪いボワザン機に比べ、補助翼を付けた操縦性の良い機体で、やがてボワザン機に変わって飛行機のベストセラーになっていく。ボワザンの不信行為は、逆に飛行機の進歩を加速する形となって航空に貢献する事になった。
ファルマン3型は1909年4月6日初飛行し、8月に行われたランス飛行大会では180kmを飛んで距離競技で優勝し、乗客搭載競技でも優勝、高度競技で2位と好成績を記録して、7機も参加したボワザン機に対して完全に引導を渡した。
1910年型はファルマン3型をスケールアップしたもので、日本の初めての動力飛行はこの1910年型ファルマン機であった。(18,800円で購入)
その後、兄弟は(末弟にリシャールがいるという文献もあり)パリのビランクールにアンリ・エ・モーリス会社を設立して飛行機の制作を本格的に始める。1915年に制作したF.40は初めて兄弟の合作でイギリスではホーレス・ファルマン型と呼ばれた。

アンリ・ファルマン3型
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