感想などありましたらこちらまでどうぞ。

飛行艇の時代

1930年代に入り飛行艇は陸上機に比べて重量や空気抵抗が大きくなり不利であるが、広大な海面を滑走路として利用できるので、滑走距離を十分にとる事ができる為、陸上機よりも多くの燃料やペイロードを搭載できた。当時、遠隔地の島々などではまだ長い滑走路などの設備が完備されていない島も多く、滑走路を整備するよりも水上基地の設備を建設する方が安価で楽に出来るのという事もあり、万が一遭難しても水上に浮いていられるという安心感もあって、しばらくは陸上機よりも広く使われる時代があった。
飛行艇による大洋横断空路の開拓はまず、南大西洋のアフリカ西海岸とブラジルを結ぶコースで始まった。ドイツのDLHのドルニエ・ワール飛行艇により1934年2月から定期郵便輸送が開始された。続いて大平洋空路は、パン・アメリカン航空により、エドワード・ミュージック機長ら6名の乗ったシコルスキーS42型飛行艇「アメリカン・クリッパー」号は1935年4月16日に出発してアメリカ西海岸〜ホノルル〜ミッドウェー〜ウェーキ〜グァム〜マニラ間全長13,229kmを往復で飛行した。続く1935年11月22日にはマーチン130型飛行艇「チャイナ・クリッパー」号が定期航空第1便に就航し、往路59時間48分、復路63時間28分で飛行し、この時に45,000通の郵便物が大平洋を渡りアメリカからフィリピンまで空輸された。翌1936年10月からは定期旅客輸送が開始された。北大西洋空路は、1936年9月10日ドイツのルフトハンザ社がドルニエDo18双発飛行艇でベルリン〜リスボン〜アゾレス島〜洋上の補給船シュワーベン号〜ニューヨーク間の調査飛行をしたのを皮切りに、1937年7月4日イギリスのインペリアル航空のショート・エンパイア飛行艇、パン・アメリカン航空のシコルスキーS42型飛行艇が同じコースを双方から出発してサザンプトン〜ニューヨーク間を、途中アイルランドやニューファウンドランド島に着水しながら飛行し、1939年5月からパン・アメリカン航空のボーイング314飛行艇により定期郵便輸送、7月から定期旅客輸送を開始した。
大平洋路線に使われたマーチン130型飛行艇は航続距離4,000km分の燃料を搭載すると、旅客はたったの12人しか乗せられなかったが、それでも当時の陸上機には真似のできない性能だった。

シコルスキーS42

マーチン130

ボーイング314

ショート・エンパイア
inserted by FC2 system