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シャルルとロベール兄弟

1766年、イングランドの富豪で素人科学者のヘンリー・キャベンディッシュは水素の分離に成功し、この気体が極めて軽い気体であることを発見した。スコットランドの化学者ジョセフ・ブラックは袋に水素を入れ、袋とガスの合計重量を同体積の空気の重量より軽くできれば、袋は上昇するのではないだろうか?と考えたが、仕事に追われ実験するまでには至らなかった。
しかし、1783年6月、パリのフランス科学院はモンゴルフィエの気球の実験成功に刺激され、人間を乗せた水素気球を早急に作る必要があるという指示をだした。新しく発見された「モンゴルフィエのガス」を分析してみた所、比重が空気の約1/2程度であるのに対して、水素の比重は空気の約1/14である事が判明し、多いに期待された。科学院は実験を物理学者のジャック・シャルルに委託し、気球の制作をロベール兄弟に依頼した。ジャンとノエルのロベール兄弟は絹に天然ゴムをしみ込ませて気密化する技術の専門家で、数週間で直径4m、容積27立方メートルの気球を制作する事ができた。当時、水素は鉄の屑を詰めた鉛の箱に希硫酸を注入して抽出していたので、とても効率が悪かった。それにパイプを通って気球に注入されたガスは化学反応で熱を帯びているので、気球の布地に引火する恐れがあり、水で冷却する必要があった。その結果、水素中の水蒸気が気球の内部で液化し、底に貯まってしまって、その水は弱い酸性なのでゴムのコーティングを侵蝕してしまう…という悪循環もあった。しかも興奮気味の大衆が公開実験がいつ行われるのか騒いでいるので、実験を無闇に遅らせる事もできない。ようやく30mの高度まで係留飛行させるだけの水素を気球に詰める事ができたが、気球を目指して群衆が殺到してきたので、気球が破壊されてしまう危険もでてきたので、気球をシャン・ド・マルス広場に移動する事にした。(そこには1世紀後にエッフェル塔が建てられた。)人通りのない夜に、タイマツをかかげた護衛に(危険だが)守られながら運ばれた。
1783年8月27日いよいよ実験が行われた。お金を払って見に来た群衆の中には77歳になるベンジャミン・フランクリンも居た。見物人の一人が「気球が何の役に立つというんだ」と言ったので、フランクリンは「では、生まれてくる赤ん坊は何の役に立つのだ」と言ったという。午後5時、グロブ号と命名されたその気球は大砲の合図で気球が離陸した。約3000mくらい上昇した所で気球内部の気圧が外部の気圧よりかなり大きくなったため、気球は破裂してしまい、午後5時45分、パリ北東24kmのゴネス村に落下した。村では大騒ぎになり、水素ガスを放出しながら身もだえるように脈打つ物体を修道士が「これは怪物の皮膚に違いない」と言った為、石を投げたり、熊手で突いたりされた。挙げ句の果てには馬で引きずりまわされてしまった。
次ぎに、シャルルとロベール兄弟は有人飛行に向けて気球に必要な改良を施す事にした。気球の一番くびれた部分は開いたままの状態にしてあり、そこから水素が漏れていくので、内部の気圧が膨張して袋が破裂する事を防いでくれる。それから気球上部にバルブが取り付けてあり、バルブからコードを伸ばしておいて、そのコードを引く事でバルブが開放され、そこから水素ガスを放出する事で高度を下げて地上に戻れるようにしてある。更に、再び上昇するにはバラスト(砂袋)を捨てる事で軽くなる事で再び上昇できるという、以後200年変わる事のない仕組みが完成した。そして、有人飛行に挑む事になるのだが。
1783年11月21日、モンゴルフィエ兄弟の熱気球に人類初の栄光はさらわれてしまった。1783年12月1日、モンゴルフィエに遅れる事10日、シャルルとノエル・ロベールの2人を乗せた気球が静かに上昇した。1時間後、1発の大砲の音がして、気球がパリからは見えなくなった事を告げた。さらに1時間後、気球はチュイルリ公園から43kmほど離れた野原に着陸したが、ロベールがゴンドラから降りてもシャルルはまだ物足りない気分だったので、ひとりで再び離陸して、世界最初の単独飛行を行った。そして、3000mほど上昇し、地上で日没を迎えた後に、さらに再び日没を見るという初めての体験もしてしまった。
その後、水素気球は航空の中心的存在として長く活躍する事になる。

シャルルの水素気球
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