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ライト兄弟の初飛行

ライト兄弟の父ミルトンは伝導牧師で、母親のスーザンはドイツ系の移民 の娘であった。一家は父の昇進ごとに転居し、長男ロイヒリン(ルークリン)は1861年 に、1862年にローリン、1867年にウィルバーはインディアナ州メルヴィル 近くの農場で生まれ、1871年にオービルが生まれたオハイオ州デイトンの ホーソン通り7番地がそれ以後、永住の地となる。そして、妹のキャサリンは1874年に生まれている。一般にライト兄弟と呼んでいるのは、ウィルバーとオービルのことをいう。
後にウィルバーが「オービルと私は、幼少のときから、一緒に住み、一緒に遊び、一緒に働き、考えるのも一緒だった」と書いているくらい、兄弟は仲がよかった。1878年のある日、父親がオモチャの模型飛行機を買ってきて与えた。それはフランスのペノーが発明したゴム動力のプロペラで飛行する長さ50cmくらいの「プラノフォア」という模型飛行機で、世界で最初の固有安定を持った「飛行機」だった。いくつも同じものを作って飛ばしたり、より大きいものを作ってみたりした。それが兄弟を航空に感心を持たせた最初のできごとだった。
兄弟の兄達は大学に進学したが、ウィルバーは高校卒業で、オービルは高校を中退している。ウィルバ ーはホッケーのスティックで顔面を強打され、危うく命拾いしたのが原因 で進学を断念したらしい。弟のオービルは勉学よりも印刷業に専念して、 兄ウィルバーの協力で印刷機を制作し、近所の住民を対象に新聞「ウエストサイド・ニューズ」を発行し たりした。 しかしそれに気をよくして発行した「イブニング・アイテム」誌はデイトンの大日刊誌に太刀打ちできず、わずか4ヶ月で発行を中止した。

ウィルバー(左)とオービル(右)
1892年、兄弟はゴムタイヤでチェーン駆動の新型「安全自転車」を購入した。そして自転車に興味をもった兄弟は自分達で販売・修理する工場を1895年にデイトン市西3番街に設立し、1896年にはライト自転車会社独自設計の自転車を製造するようになる。その年、オービルがチフスにかかって入院することになる。当時牛乳の低温殺菌法が行われてなかったので、当時アメリカでこの伝染病が流行っていた。オービルの病状が良くなりつつあった頃、兄弟に飛行への感心を募らせるきっかけとなるニュースが新聞に乗った。1896年8月リリエンタールがグライダーの墜落事故で死亡したのだ。見舞いに来たウィルバーとリリエンタールの研究を論じあっているうちに自分達で航空の研究をしてみようと思うようになる。しかし実際にライト兄弟が行動に移すのに数年のブランクがある。それは自転車業を始める資本も父方の祖母の土地を抵当に入れて借金していたので、まずは資金を作らねばならなかったからである。(その縁で製造した自転車は祖母の性のバン・クリーブと命名した。)
ウィルバーが1899年5月30日にスミソニアン協会に手紙を書いた。「私は航空に関する問題に興味を持っている者ですが…」から始まって航空に関する資料や参考文献のリストが欲しいという内容の手紙であった。(その手紙で問題(problem)の綴りが間違って Ploblem となっているそうだ)ライト兄弟は送られてきたリストからオクターブ・シャヌートの「飛行器械の進歩」やリリエンタールの「航空の基礎としての鳥の飛翔」、ラングレー教授の「空気力学の実験」「機械的飛行の実験の物語」などを読み、「我々は、リリエンタールは5年間に2000回以上も飛んでいるにも拘わらず、実際の滑空時間はわずか5時間だったろうと推察した。我々は実行できる方法が見つかったなら、これを数秒間研究する代わりに数時間研究するという態度で臨んだならば、きわめて困難な問題も解決できるだろうと考えた」と述べている。
兄弟もまた鳥の観察からスタートしている。そしてハゲタカが突風を受けた時、翼端をわずかにねじることでバランスを回復している事に気が付き、リリエンタールのように体のバランスで調整するよりも動力機の場合は合理的だとして飛行機に応用する方法を考えた。そして1899年7月、ウィルバーが客と世間話をしている時にタイヤチューブ用の細長いボール箱を何気にひねった所、複葉翼組をこのようにねじればよいと閃いた。さっそく8月に凧を作って実験を開始した。横150cm縦33cmの翼を上下に配置した複葉で、安定の為に前翼式の水平安定板をつけていた。
そして兄弟はより効果的に実験を行う為に強い恒風の吹く地点を探してアメリカ気象局へ問い合わせた。送付された資料にもとずいて選定するとき、シャヌートの助言を得た。そしてデイトンから直線距離で約800km(東京から福岡程度)離れたノースカロライナ州キティーホークに決めた。キティーホークにはホテルも下宿もなかったので、1900年の第1号グライダーの実験の時はテントを張った。第1号グライダーはやや翼面積が不足していたので主に凧として実験した。1901年の第2号グライダーは大型化され、それに伴ってテントでは間に合わなくなったので、木造のバラック小屋を建てた。
しかし、1901年7月から8月にかけて行った実験で、兄弟にある疑惑が浮かんだ。今までリリエンタールの実験データを信じてきたが、計算通りに飛んでくれないのはリリエンタールのデータが誤っているのではないかと…。そして兄弟は自分達で風胴をつくり実験を重ねて、「リリエンタールの数表がきわめて重大な点で間違っている」ことを確認した。そして第3号グライダーを完成させる。
第3号グライダーの実験中、旋回時に発生する補助翼の逆片ゆれという重要な特性を発見し、それを方向蛇によって釣合わせることで正常に旋回させることを確かめた。近代的飛行機の原理が確立した。つまりは「方向蛇」「昇降蛇」「補助翼」による3軸モーメントを釣合わせるという原理である。兄弟は第3号グライダーで1902年9月から10月の間に合計1000回近い滑空を行った。それは毎日平均15回に相当し、リリエンタールが2年半かけて行った実験をカバーした。あとはエンジンを乗せて飛ぶだけとなる。

1900年型グライダー
ライト兄弟は動力としてガソリン・エンジンにすることにした。それは自動車業者から手に入るはずだったが、兄弟の注文に合うような既製のエンジンがないばかりか、新規製作するにも予算に合う金額では不可能だった。それではと兄弟は自分達でエンジンを開発することにした。4気筒12馬力で重量は約62.5kgというエンジンを自転車工場の職長チャールズ・テーラーが6週間で作りあげた。
そして、一番の問題はプロペラだった。兄弟は船舶用のプロペラを参考にしようと思ったが、これといった理論もなく、試行錯誤しながら作られているのが現状なのを知って、ガッカリしたが、それでも兄弟は議論を闘わせながらプロペラを設計した。そして完成した「フライヤー1号」は、その2本のプロペラをチェーンで駆動し(エンジン回転を減速させるため)互いに反対まわりに回転させた(プロペラの反動トルクを相殺するため)。
1903年12月14日、いよいよ兄弟は決行する事にした。どちらが先に飛ぶか公平に決定するためにコインを投げ、(この当りに兄弟の一心同体的な精神を感じる)兄のウィルバーが先に飛ぶ事になった。飛行機は4.5m程上昇したが、急角度で上昇しすぎて失速してしまい、約3秒半ほど飛行したが砂地に突っ込み、左翼と昇降蛇と着地用の橇の片方を破損した。兄弟はこれを飛行とは認めず、機体を修理して再挑戦することにした。1903年12月17日、今度はオービルが乗ってスタートした。そして12秒間で約36m程を飛行した。それは飛行距離こそ短かったが、「人間を乗せた飛行機が、それ自体の力によって浮上して空中を飛行し、速度を減じる事なく前進し、離陸した場所と同じ高さの地点に着陸した、世界の歴史上最初のこと」であった。その日、兄弟は合計4回の飛行をし、最後はウィルバーの操縦で260m、59秒間滞空した。

1903年「フライヤー1号」による人類初の飛行の瞬間
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