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ライト兄弟の栄光

1903年、ライト兄弟が自転車工場での経営で得た年収は3000ドルだった。第1号グライダーは15ドルで製作できたが、流石にフライヤー1号の制作費は約1000ドルだった。つまり、ライト兄弟は自分達の年収の三分の一を飛行機製作に投資した。兄弟は飛行機を「夢」としてではなく、「事業」として考えていたので、経費は1セントにいたるまで細かに記帳した。そして、他からの資金援助は一切受けず、シャヌートが有名な製鉄王アンドリュー・カーネギーから資金を出してもらうように世話をしようと申し出た時も断った。
1904年、フライヤー2号を製作。エンジンの馬力を増した以外は1号と同じ機体。デイトン郊外のハフマン・プレイリで年間約80回の飛行をした。飛行時間の合計は約45分で、最長飛行時間は5分04秒だった。その頃、報道関係者の訪問を受けた。ところがあいにくエンジン故障で飛行は中止となり、再度訪問の時も不首尾だったので、記者は3度と訪問しなかった。第3号グライダーの実験に基づいて、撓み翼(補助翼)と方向舵操作による旋回操縦装置の特許を1903年に申請している。これは3年後の1906年に合衆国特許821393号として公告された。慎重なウィルバーは特許公告前に機体を公衆の面前にさらしたくなかったので、特に新聞記者を嫌ったので、ハフマン・プレイリでの不首尾ももしかしたら兄弟の計画した事だったかも知れない。
しかしこの特許は重要な項目を含んでいた。「単葉、または多葉の主翼を持つ飛行機で、主翼の側方部分が飛行中に、右舷と左舷でちがうようにとりつけ角を調整可能なもの」という、ライト兄弟にしてみたら自分達の苦心の結果だから自然な請求だった。しかし、これは「補助翼の原理」で本来は特許にはできない。ニュートンの運動法則が特許になればあらゆる機械装置が特許にひっかかってしまう。しかもライト兄弟の特許には釣り合い旋回法まで請求範囲に含まれていた。そうなるとライト兄弟の特許を使わない限り、飛行機は成立しなくなってしまう…。
1905年には、フライヤー3号を製作した。2号よりも大きくなり、安定性も増して、8の字飛行ができるようになった。約50回の飛行を行い、飛行時間の合計は約3時間、最長飛行時間は38分3秒、飛行距離は40.5kmだった。ウィルバーはこの程度の性能ならば偵察機として軍用に使えると考え、デイトン選出の議員に頼んで、アメリカ政府の意向を打診してもらったところ、極めて消極的な返事で、交渉は成立しなかった。このため、兄弟は1905年10月から1908年5月まで約2年半、飛行を行わず、誰にも機体を見せなかった。
ライト兄弟が飛行を中断していた1905年から1907年まで、世界の航空の進歩は兄弟から見るとほとんどゼロだった。1906年11月12日ブラジル人、アルベルト・サントス・デュモンがパリのバガテル(ブローニュの森の西のはずれ)で14bisという自作の飛行機でヨーロッパ初の飛行(初の公認世界記録)に成功した。飛行時間21.2秒で、距離は220mだった。(ライト兄弟の初飛行4回目の260mに及ばない)そして最初の距離100mを越えた飛行成功者として、フランス飛行クラブから、賞金1500フランを贈られた。1908年にボワザン・ファルマン機で飛んだアンリ・ファルマンが1分14秒、飛行距離1030mを飛行した。1908年7月6日、ファルマンは20分20秒の飛行をして、ヨーロッパ記録を立てて、最初の四分の一時間を越えた飛行をしたとして、賞金1万フランをもらった。
当時フランスは先進国というプライドがあったので、田舎者のアメリカ人が飛行したというニュースを信用してなかった。ライト兄弟が飛行して5年もたっているのに、まだ、ヨーロッパの飛行機には補助翼がなく、方向舵だけにたよった横滑りを伴う危険な旋回しかできなかった。
1907年には腰掛け式の座席を設けた2人乗りのライトA型を製作した。この機体で兄弟は反応の鈍いアメリカを諦め、ヨーロッパでセールスする事にした。しかし、パリでの商社との商談は不成立だった。技術屋である兄弟はセールスの方法をよく心得てなく、図面も見せず、ただ信じなさいというだけでは相手も納得しなかった。名選手は名監督にあらずと言うが、発明家としては優秀だった兄弟はセールスマンとしては落第?だった。結局、兄弟の新型飛行機はル・アブール港の保税倉庫に入ったまま年を越す事になる。
1908年はライト兄弟が最も栄光に輝いた年であった。パリで前とは別の商社から提案があった。それは同乗者1名を乗せて50kmの周回飛行を行い、次ぎの週に同じ事を繰り返したのち、それ以後4ヶ月以内に記録が破られなければ2万ドルを支払うというものだった。兄弟は1905年に約40kmの周回飛行を達成しているので充分な自信があったので契約にサインした。そして、アメリカではアメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが「サイエンディフィック・アメリカン」に掲載されたライト兄弟の記事を読んで陸軍に調査を命じた。上からの命令が降りると今までの冷たい態度はどこかへ消え、そそくさと陸軍の担当者は機体の入手手続きにとりかかった。
フランスのル・マン(パリ南西180kmにある工業都市)の自動車工場主レオン・ボレの協力で彼の工場の作業場でウィルバーは機体の組み立てをする事にした。ル・アブール港の保税倉庫に1年以上あった機体の梱包箱が税関吏によって乱暴に開けられて機体が破損していたので作業は朝早くから夕方遅くまでかかった。相変わらず新聞記者には無愛想を極めたので、たちまちウィルバーの評判は悪くなって、「山師」と書かれるようになる。

ル・マンを飛行するライト機、発射用カタパルトが後ろに見える。
1908年8月8日、準備が整い、ル・マンの郊外ユノディエール競馬場で公開飛行が行われた。しかし、飛行の前にウィルバーが飛行中の写真撮影の権利をニューヨークの業者に売ったので撮影しないでくれと申し出たのでカメラマンから不平がでた。それなら飛行しないとウィルバーが言うと、カメラマンが渋々撮影自粛を承諾したので、ウィルバーは離陸した。離陸後に高度10mで観衆の頭上をかすめて競馬場を2周し、スタンドの上で機体を急角度でバンクさせながら8の字飛行を見せたのちに、優雅に着陸した。1分47秒の飛行だった。ウィルバーにしてみれば短い飛行だったが、観客にとっては長い時間であった。緑の野原に白い機体がとても印象的に栄えた。競馬場は異常なくらいの大歓声に包まれた。翌年、初の英仏海峡横断飛行で有名になるルイ・ブレリオは取材中の記者から感想を聞かれ、興奮したままたった一言、「すばらしい事だ」(C'est merveilleux !)とだけしか言えなかった。専門家はライト兄弟の飛行機の旋回が横滑りを伴わない釣り合い旋回である事に目をとめた。ウィルバーは13日までル・マンで9回の公開飛行を行った。それから西へ11kmほど行ったオブールの陸軍駐屯地でその年のいっぱいをそこで飛行を行った。100回以上の飛行をして、12月31日には2時間20分23秒も飛んだ。この功績に対してフランス政府がウィルバーにレジョン・ドヌール勲章を贈ることにしたが、ウィルバーがオービルを除いて勲章を受けるわけにはいかないと断ったので、フランス政府はオービルにも勲章を贈る事にした。この当りに飛行機は兄弟の一心同体の産物という強い意識を感じる。
一方、アメリカでのオービルの飛行は芳しくなかった。1908年9月17日、フォート・マイヤーで、トーマス・E・セルフリッジ陸軍中尉を同乗させて離陸し、高度約40mで旋回飛行を開始したところ、異常音と振動がしたので、オービルはエンジンを絞り、着陸しようとした。しかし、突然強烈な衝撃が発生して操縦できなくなり、高度約15mになったとき、ようやくオービルが一杯に引いた上げ舵が利き、機首は上がりかけたがそのまま8mの高度から機体が地面にたたきつけられた。セルフリッジ中尉は座席から投げ出され、支柱に頭を強打して、数時間後に病院で死亡した。オービルは重症を負ったが、命はとりとめた。翌年の1909年6月にはオービルは再び軍人を乗せて16kmコースを平均時速42.5マイル(68km)で飛行し、契約金2万5000ドルの他に、仕様時速40マイルを2.5マイル超過したので、ボーナス5000ドルを得た。軍人はいつ事故にあっても不思議ではない危険な職業だったので大きな問題にはならなかったのだろう。
1909年1月14日にはウィルバーは南西フランスのポーに移動し、1月16日には妹のキャサリンと共に怪我から回復したオービルも合流した。ポーに兄弟は飛行学校を設立し、3人のフランス人パイロットの訓練をしながら飛行機を飛ばしていた。連日、大勢の見物人がつめかけ、時にはスペイン国王アルフォンゾ13世やイギリス国王エドワード7世、イタリアのマルゲリータ王妃などがわざわざ訪問する日もあった。そうゆう時はキャサリンが奇麗なドレスを来て出迎えた。4月になるとローマ、パリ、ロンドンなどをまわり、アメリカに帰る事にした。ニューヨーク、ワシントンにも滞在し、故郷のデイトンには5月13日、4頭立ての馬車に乗って凱旋し、1万人を越す観衆に温かく迎えられた。しかし、ライト兄弟の栄光はここまでであった。

国王たちの上空を飛行するライト機。
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