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ラタム

アントワネット単葉という飛行機は実に優雅な飛行機で、木製の胴体は船のように美しく仕上げられており、パイロットは上半身をほとんど機体から乗り出した形で乗っていて、粋な感じがする。設計した人は、ガスタンビード・マンジャン社の技師でルババッスールという人物で、顔中髭だらけの「アントワネット」という美しい機名からは想像できない風貌だ。それもそのはずで、機体の名前は、社長のガスタンビードが自社の機体とエンジンに愛娘アントワネットの名前を付けると決めたからである。1908年2月にガスタンビード・マンジャン1型を制作し、7月22日に初飛行した2型からアントワネットという機名になった。3型はフェルベという人の設計した別系統の機体で、1908年10月9日に飛行した4型がアントワネット機の名声を高めた。
デイリー・メール紙が初の英仏海峡横断飛行に懸賞金をだした時、まず挑戦したのがユベール・ラタム(1883年生まれ、イギリス系フランス人)であった。彼はもともと自動車レースと野獣狩り(サファリ)のハンターだった。彼が飛行機に興味を持ったのはモンテ・カルロでモーター・ボート・レースに参加した時に、アントワネット機の設計者ルババッスールに会ってから…とか、医者から余命1年と宣告されて、残りの人生を有効に使おうと思ったからとも、言われている。1909年4月4日にわずか20分の同乗飛行をしてからは単独飛行に移ったという。彼は初飛行からわずか3ヶ月で冒険的な飛行に挑戦した事になる。
ラタムとルババッスールが英仏海峡横断飛行に挑戦する為にフランスのカレーに到着したのは1909年7月の事だった。7月8日から19日まで、天候に恵まれず、ひたすら天候が回復するのを待つばかりの毎日だった。7月19日の早朝、天気は回復しそうだた。海は静かで、対岸にはドーバーの白い崖がかすかに見えた。6時42分にアントワネット4型機にラタムが乗り込んで離陸した。待機していたフランスの駆逐艦「アルポン」号も護衛の為にドーバーに向って航行を始めた。ラタムのアントワネット機はすぐに駆逐艦を追いこし、順調なスタートを切った。しかし、途中でエンジンの調子が悪くなりだし、ついには停止してしまって、ラタムはアントワネット機を静かに着水させた。カレーに戻ったラタムは工場に代えの機体を準備するように打電をした。その代えの飛行機(今度は1909年4月17日に初飛行した7型)と一緒に到着したのはライバルとなるブレリオ機だった。7月23日には準備が整ったが、相変わらずの強風で離陸するのは困難だった。7月24日も強風で、次ぎの日も天候が回復しそうな様子はなかった。ルババッスールが天候の様子を見るために4時半ごろに起きた時は既にブレリオ機はドーバーに向けて出発した後だった。あわててラタムを起こし、飛行の準備にとりかかったが、時既に遅く、ブレリオ成功のニュースが飛び込んできた。ラタムは落胆して涙を流したという。ある新聞の記者はまるで精神病患者のようだったと報じた。その日の天候はすぐに悪化して飛行は不可能になった。ラタムはブレリオに「本当におめでとう。すぐ君の後に行きたい」と祝電を打った。
7月27日、ラタムは再び英仏海峡横断飛行に挑戦した。何とかブレリオの記録を破ろうとしたが、ドーバーの手前2kmほどの所で、またも海上に着水した。そんな時に木製の船のような形をした胴体と、防水布を貼った大きく彎曲した翼が浮きの代わりをして助かったというから皮肉な話しである。
アントワネット7型機は引き上げられ、修理し1909年8月22日〜29日のランスで行われた飛行大会に出場した。154km周回距離記録を作ったが、それはすぐ翌日にアンリ・ファルマンによって180km(3時間4分)の記録で破られてしまったが、高度155mを記録して高度賞を獲得した。そう思うとたかが40kmの海峡横断に2度も失敗したラタム(アントワネット機)は不運としか言い様がない。
その後、アメリカやイギリスで数々の派手な飛行ぶりを披露して、名飛行家として名声をあげるが、1912年アフリカへサイ狩りに出掛けた時に事故で29歳の生涯を終えた。

美しい機体のアントワネット4型単葉機
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