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“優雅なロマアンチスト”サントス・デュモン

アルベルト・サントス・デュモンは1873年7月20日、父アンリク・デュモンと母ドナ・フランシスカ・ドス・サントスとの間の第7番目の子供として、ブラジルで生まれた。父のアンリク・デュモンは土木技師で、先祖はパリのパレロワイヤルに住む宝石技師だったが、独立後間もないブラジルに移民してきた。そしてポルトガル系の婦人と結婚して、ブラジルの風習に従い、両家の性を並べてサントス・デュモンと名乗るようになった。父のアンリクはサンパウロ郊外に広大な土地を買い、コーヒー農園を始めた。当時のブラジルのコーヒー栽培は近代化が遅れていたので、徹底的な機械化、合理化を図り、またまくまにコーヒー王にまで登りつめた。しかし、1891年にアンリクは落馬して重傷を負ってしまい、不自由な身体になってしまったので、農場を売却して巨万の富みを得た。そのおかげでアルベルトはその一部のお金を自由に使う事ができた。アルベルトは父の治療を兼ねて、母と3人でパリにやって来たが、翌年、1892年に父が死亡する。
1897年、彼はまず1号気球「ブラジル号」を製作する。身長155cm、体重41kgという小柄な体格に合わせて、気球も従来よりも小型のもので、材料も日本の絹、軽い籐の籠を使ったりして、重量わずか32.7kgに仕上げ、1898年7月4日初飛行に成功すると、各地にこの気球で飛び回った。続いて同じ年の9月20日には第1号飛行船、1899年5月11日に第2号飛行船、11月13日に第3号飛行船を進空させている。1898年にはフランス航空クラブが設立され、サントス・デュモンも早速クラブの許可を得てサンクルーのロンシャン丘の上の基地に格納庫、水素プラント等を建設した。パリ上空を優雅に飛行するサントス・デュモンはパリでも人気者になり、フロックコートに薄いグレーのズボン、絹のシャツに高いカラー、赤いネクタイに山高帽というお洒落な服装も人気に拍車をかけた。1900年4月の航空クラブ総会で、石油精製業者のアンリ・ドゥーチュ・ド・ラ・ムートがサンクルーを出発してエッフェル塔を一周してサンクルーに30分以内で戻ってきたものに10万フランの懸賞金をだすと発表した。(当時のフランスでは中級のサラリーマンの月給が150フランくらいだという。)
サントス・デュモンもこれに挑戦する決心をし、早速、第4号の飛行船を1900年8月に完成させる。しかし、索引式のプロペラにした結果、風当りが強く、肺炎になってしまったので、以後の飛行船はすべて推進式に改めた。1901年7月9日、初飛行した第5号飛行船は自信作だったが、2回の挑戦はいずれも失敗に終る。そして22日間で第6号飛行船を完成させ、試験飛行をして調整を進めた。1901年10月19日、午後2時42分出発。往路は追い風で約9分でエッフェル塔に到達したが、復路は逆に向い風で苦戦した。エンジンの不調などで、サンクルーのゴールを通過したのが29分31秒、それから急旋回して着地した時点では30分40秒だった。冷たい飛行クラブの認定委員は失格を宣言したが、周囲の熱心な見物客からは「サントスに賞を!」「くたばれ委員会」などという声援が飛び交い、マスコミも世論に同調したので、委員会も渋々、2週間後にサントス・デュモンの入賞を決定した。彼は賞金の10万フランのうち、7万5000フランをパリ市の貧しい人たちに寄付し、残りをスタッフに贈呈したので、彼の人気はますます高まった。

お洒落なサントス・デュモン
彼はその後も次々と飛行船を製作したが、フランス航空クラブが距離100mを飛んだ最初の飛行機に賞金1500フランを、また、アルシュデックが25m飛んだ飛行機に3000フランの賞金をだすと発表したので、彼の次ぎの目標は飛行機に向けられる。1905年12月、彼は発足したばかりのボワザン飛行機工場に飛行機の製作を依頼する。ローレンス・ハーグレーブの開発した箱凧の影響を強く受けた主翼構造で、先尾翼式の奇抜な機体が完成する。完成した飛行機は前人未到のユニークな方式で飛行実験が行われる…。つまり、地上10mの高さに渡したロープに滑車を付けて、飛行機を吊り下げて、ロバに引かせた。しかし、ロバのスピードがあまりにノロく、舵が効かず、飛行実験にはならなかった。そこで、14号飛行船に飛行機を吊り下げ、実験した。しかし、その実験も効果がなく、飛行機の名前を14ビスと名付けるのにしか役にたたなかった。(つまり、14番目に製作した飛行機ではなく、14号飛行船で実験したので14ビスとなった…)
1906年9月13日、ブローニュの森のバガテル広場で大勢の見物人の見守る中、1回目の挑戦はジャンプしたが、脚を破損して失敗に終る。2回目の挑戦は、10月23日で、7秒間に高度2〜3m、距離60mを飛行し、アルシュデック賞が授与された。ヨーロッパ初の飛行に人々は熱狂し、新聞は「人類は空を制服した」と大袈裟に書き立てた。(ライト兄弟は前年には30分以上の飛行を達成しているが…)。3回目の飛行は同年11月12日、バガテル広場で行われた。その時はライバルのブレリオが4型複葉機で挑戦しようとしていた。サントス・デュモンは先輩として、先ずブレリオに先に飛行するようにしたが、結果は失敗で、機体を破壊してしまった。午後4時30分、離陸し、不安定な飛行ながらも高度約5mくらいで飛行を続け、着陸で脚が破損したが、時間21秒、距離220mを見事に飛行し、飛行クラブによって世界最初の公認記録として認定され、1500フランの賞金を獲得した。

14bis型飛行機
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