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スピードに命をかける

ライト兄弟がル・マンで公開飛行を行った翌年、ヨーロッパで飛行機が本格的に芽生えた年、すでに第1回の国際的な競技大会、ランス飛行大会が開催されて、以後、そのような競技会が盛んに世界各地で開催されるようになり、次々と記録が更新されていった。有名なレースでは、ゴードン・ベネット杯(1909年〜)、ドゥーチュ・ド・ラ・ムールト杯(1912年〜)、シュナイダー杯(1913年〜)、ピュリッツァ杯(1919年〜)などがある。それぞれ、勝つ為に色々なアイデアが試行錯誤されたりして、技術を磨いていった。
1920年、ゴードン・ベネット杯に出場したデイトン・ライトRB単葉は主翼は単葉形式で、しかも翼前縁と後縁に手動式のフラップを採用したり、抵抗の大きい車輪も手動式で引き込み式にしたり、コックピットも前が見えない密閉式にして空気抵抗を減らそうとするなど意欲的なアイデアが盛り込まれていた。しかし、人力によるフラップ操作はものすごい力が必要なので、無理があり、フラップの実用化には油圧による作動機構が利用できるようになるまで待つ必要があり、アイデアに技術が追い付いてないという感じのものだった。
1922年のベルナールC1も単葉片持翼を採用し、モノコック構造でアルミニウムの外板は空気抵抗を抑えるためにリペットの頭が外にでないように沈頭鋲が使われた。
1922年のカーチスR6レーサーも空気抵抗の小さくできる水冷エンジン採用し、しかも、大きな空気抵抗になるラジエーターを完全に翼の表面に展開するという方式を採用した。この方式は、その後のレーサーが手本として採用することになった。
こうした競技会の中でも、特に国同士が総力を挙げて参加し、数々の名勝負をして、もっとも華々しい展開で人々の心に刻まれているのが、シュナイダー杯である。フランスのシュナイダーが、当時、陸上機に比べて性能が劣った水上機を何とか発展させようという目的で始めた水上機の為のレースで、1913年に第1回目の大会が開催された。どこかの国が3回連続して優勝すればその国がトロフィーの永久保持国になるというルールで、イタリアが2連勝すればイギリスが阻止し、アメリカが2連勝すればイタリアが阻止し、イギリスが2連勝して…という白熱した展開で盛り上がった。そして、陸上機がフラップが実用化できずに滑走路や、離着陸速度などの面で、翼面荷重をあまり大きくできず、性能が伸び悩む時代に、広大な水面を滑走路として利用できる利点を生かし、大馬力、高翼面荷重で、フロート付きによる空気抵抗のハンディにかかわらず、陸上機よりも水上機の方が速いという奇妙な時代を築きあげた。強力なエンジン装備による強力なトルクのため、フロートの片側にだけ燃料を満タンに入れ、胴体や翼面、フロートなどあらゆる部分が冷却器として利用され、究極の性能が追求された。

いくつか速度競技で有名な飛行機を紹介しておきます。

カーチスR3C-2
1925年10月10日、ピューリッツァー杯で陸上機のカーチスR3C-1が優勝した。それにフロートを付けて水上機とし、シュナイダー杯に参加した機体がカーチスR3C-2で、同年10月26日にジミー・ドゥーリトルの操縦で平均374.27km/hで見事優勝し、水陸両方の大会を制覇した。

スーパーマリンS6B
スーパーマリンS6Bは1931年9月13日のシュナイダー杯優勝で、3年連続イギリスの優勝でトロフィーを永久にイギリスが保持する事を決定した。しかもレジナルド・R・ミッチェル設計のこの機体を基礎として名戦闘機スピットファイアが、ヘンリー・ロイスにより、このエンジンから名エンジンのロールス・ロイス・マリーンが生まれたので、イギリスにとっては価値のある優勝であった。1925年のシュナイダー杯ではまだ複葉機が主流だったが、ミッチェルは意欲的に単葉のS4で挑戦したが、レース前に故障してしまう。しかし、1927年にはS5で見事優勝し、次ぎの1929年のS6でも優勝し、トロフィーの永久保持に玉手をかけた。しかし、新政権の労働党は国費によるレース参加に反対的で、レース参加が危ぶまれた時、富豪の未亡人ヒューストン夫人が10万ポンドを寄付したので何とかレース参加が実現した。開発期間短縮のため、S6の改良する事に決定し、馬力アップなどでS6Bが誕生した。ライバルのイタリアなどのもたつきで、イギリス単独のレースとなり、547.3km/hで優勝した。その後、世界記録にも挑戦して654.9km/hの新記録も樹立した。

マッキMC.72
1931年、イギリスの2連勝を阻止すべく開発されたが、エンジン2基を串型に並べて同軸2重反転プロペラをそれぞれのエンジンで回転させて大出力とトルクの問題を一気に解決しようという意欲作だったが、その新しさゆえ結局レースまでに開発が間に合わず、以後の目的は速度記録に焦点が合わせられた。1933年4月10日にフランセスコ・アジェロ操縦で682.078km/hでライバルS6Bの記録を破り、1934年10月23日にはエンジンを3100馬力にアップして709.209km/hという大記録を樹立した。この記録はレシプロ水上機としては現在も破られていない不滅の記録である。

ジービーR1
1932年トンプソン杯レースの予選でジミー・ドゥーリトルの操縦で473.7km/hの陸上機の世界速度記録を樹立し、続くレースでもドゥーリトルの操縦で406.6km/hで優勝して一躍有名になった。しかし、安定性はないに等しく、その後、致命的な事故が相次ぎ、今度は最も危険な飛行機として有名になった。
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