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ライト兄弟の衰退

ライト兄弟の飛行を見た専門家は補助翼で横滑りを打ち消して見事に旋回している事に気がついた。3次元の乗り物だから舵も3つ必要だったと悟った。そしてライト兄弟が恐れていた事が現実のものとなる…。ファルマンは主翼の後縁に小さい可動式の翼をつけた。ブレリオ単葉はそのままライト機の主翼をねじる方式をパクッた。ライト兄弟は訴訟を起こしたが、フランス政府はそれを黙認した。
技術の進歩も急速だった事から、ライト兄弟の飛行機は瞬く間に時代から取り残されていった。兄弟も、先駆者としてのプライドを捨てられず、最後までチェーン駆動にこだわり、馬力増大を自ら制限してしまい、撓み翼に執着して高速化に伴う主翼の剛性増大に対応できず、搭乗者は骨組みの機体で、外気流にさらされるというグライダーからの哀愁をひきずった。
ウィルバーの公開飛行から1年後に開かれた1909年8月22日から29日にかけて開かれたランス飛行大会で、ライト機3機は他の20機とともに出場したが、7種の競技種目で1種目にも入賞すらできなかった。兄弟にしたら宿敵のカーチスが速度競技2種目で優勝し、1種目で2位に入賞したのとは対照的だった。ライト兄弟はもはや「その他の一形式」にすぎなくなってしまった。
ヨーロッパで特許が無視されたのでその怒りの鉾先はアメリカ国内で爆発する事になる。飛行機を作ろうとすればライト兄弟から告訴されるか、高額の特許料を支払わなければならなくなり、ヨーロッパの航空が飛躍的に進歩したのと対照的にアメリカの航空は足踏みする事になる…。特に強い鉾先を向けられたのがグレン・カーチスだった。「われわれの頭脳の所産を利用して1ドルでも着服しようと企てる者がいる限り、われわれは黙視できない。」としてカーチスを告訴した。カーチスは開放的な明るい性格だったので、アメリカ人に人気があった。自動車王ヘンリー・フォードはカーチスに必要ならば自分の弁護士を差し向けようと言った。形勢が不利だと判断したシャヌートはウィルバーに「君のいつもの健全な判断が、大きな富みを求める欲望のために歪んでいるのが心配だ」と書き送った。ウィルバーは「貴下のご意見によると、われわれは発明家として過去の業績に対してなんの権利も与えられない事になります。」だった。ライト兄弟とシャヌートの友情関係は急速に冷えてしまった。ライト兄弟の追求があまりにもしつこいので、飛行家のリンカーン・ビーチーがカーチスの弁護に立って、曲面を持った翼も特許に触れると告訴していたライト兄弟の法廷代理人に向って、「どんな板だって飛ぶんだ!」(Any board will do ! )と言った。それがアメリカン精神である事を理解できなかったライト兄弟はやはりドイツ系民族の血を強く残していたのだろうか。心情的にライト兄弟の気持ちも理解できる。自分達が発明したのだから…。しかし、先駆者としてのプライドが災いして、良き協力者を見つけて発展させるなどの方法を模索できず、時代に取り残されてしまった。法廷での争いのための心労と、もはや技術的にも時代に遅れてしまった焦りなどがたたって、1912年5月30日、ウィルバーは45歳の若さで息を引き取った。病名はチフスだった。
1914年6月2日、カーチスはスミソニアン協会の援助で、1903年10月7日ラングレー教授の設計してマンリーの操縦で、ポトマック川に浮かべた屋形船の上に設置された発射台から飛行したが、水中に墜落破損した「エアロドーム号」を再び飛ばす事に成功した。そして、スミソニアン協会がライト兄弟以前に飛行可能な機体が存在した事を立証したと声明した。オービルが憤慨して、その時の「エアロドーム号」は多くの重大改修が施してあって、オリジナルの状態でないので、スミソニアン協会の発表は不当だとして抗議した。しかし、協会の反応が鈍かったので、オービルはフライヤー1号を1928年にロンドンの科学博物館に寄付した。その後、1942年になってようやくスミソニアン協会が1914年にライト兄弟と抗争中のカーチスと協力した事は誤りであったと声明したので、フライヤー1号はようやくアメリカに里帰りする事になったが、戦時中だったので、実際にスミソニアン協会の展示場に戻ってきたのは1948年12月17日、初飛行から丁度45年後の事だった。しかし、その半年前の5月30日、兄ウィルバーの命日にこの世を去っていたので、自分達の機体が戻ってきたのを見る事はできなかった。

ライト兄弟の飛行機で最も美しかった、ライトA型。
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