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飛行機の夜明け前…

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1480年代から1519年に死亡するまでの間に、数々の羽ばたき機のスケッチ(ヘリコプターのようなものも含めて)を残したが、いずれも模型による実験も行われず、航空の進歩には何ら影響を与える事がなかった。
現在の飛行機の概念を最初に考案したのはイギリスのジョージ・ケイレーである。彼は鳥の飛行を観察し、鳥の羽根の初列風切り羽が推力(前に進む力)を発生させていることを知り、揚力(浮く力)と別に推進力を発生させる装置をつけて操縦するという、飛行機の原形になるアイデアを1799年に小さな銀盤に彫り込んだ。推進力に櫂状のものを使うなど、そのもの自体は非現実的であったが、浮揚と推進と操縦を別々のものとしてとらえた当時としては画期的なアイデアだった。
そして1849年、「フライヤー」と名付けられた世界最初の複葉グライダーで、数回の飛行実験をして10才くらいの少年を乗せて数m地面を離れて浮上した。これが人類最初の重航空機(空気より重い航空機)による飛行となる。その後1853年に「ニュー・フライヤー」と名付けたグライダー(推進用に櫂状の羽ばたき装置付き)を完成させ、丘の斜面をグライダーは約150mほど滑空した。その御者が最初に叫んだ言葉は「私の仕事は馬車を駆る事で、空を飛ぶことではありません」だった。

ジョージ・ケイレーが1799年に描いたスケッチ
ドイツのオットー・リリエンタールはグライダーの父として知られる。そして鳥の飛行を観察し、彎曲した翼の方が揚力が大きい事を発見し(実際にはケイレーが100年前に発見していたが、情報がなかったので知らなかった)、1889年に「航空の基礎としての鳥の飛翔」という本を出版した。それは以後、航空学文献の古典となる。リリエンタールは動力飛行の予備段階で、実際に空を飛んでみなければ克服できない問題があるとして、グライダーによる滑空実験を行った。そのアプローチが同時代のライバルであるハイラム・マキシムと違ったため、お互いに反目しあう事になる。
リリエンタールは1883年のスミソニアン協会の報告書の中で「風は裏切り者だ」と警告している。安定した飛行は常に重心の位置を匡正する必要があると。6年間で2000回以上の飛行を行い、250mを超える飛行を何度も経験していた彼の最終の目的は「羽ばたき機による飛行」だった。しかし、数回の実験は何れも失敗に終わっている。そして1896年8月9日、リノヴァ丘陵の丘のひとつから、彼の標準型の複葉グライダーで飛び立ち、突風にあおられて墜落し、翌日、脊椎骨折の為に死亡した。生前、口癖で「有人飛行を実現するためには多くの犠牲者がでるのはやむおえない」と言っていた本人がついにその犠牲者になってしまった…。

1895年
リリエンタールの13号複葉グライダー


1889年
航空の基礎としての鳥の飛翔(本文)
オクターブ・シャヌートは1894年「飛行器械の進歩」という本を出版した。この本はリリエンタールの本とならんで航空学のバイブルとなった。彼は当時の航空の「情報基地」的存在で、知識の援助だけでなく、場合によっては資金の援助などもした。彼はグライダーによる実験をくり返せばやがて、安定性も操縦性も備えた飛行機が作れると信じていた。そして1896年には代理人(自分は高齢で乗れないため/64歳だった)を乗せて複葉グライダーで滑空実験を行った。
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