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マンモス飛行船の時代

気球は風まかせで、自由に航行することができないので、何とか独自の動力で飛行できないかと、気球にプロペラを付けてその推力で前進させ、空気抵抗を減らすために船体を流線形にした飛行船のコンセプトができ上がった。最初の飛行船は1852年フランスのアンリ・ジファールの飛行船(3馬力蒸気機関で時速10km)だが、馬力当たり重量が大きい蒸気機関は動力としては飛行船に向いてなかった。19世紀末にガソリンエンジンが実用になって飛行船の性能は一躍向上する。
フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵はプロイセンの衛星国ヴュルテンベルクに生まれた。伯爵が飛行船の建造を真剣に考えはじめたのは52歳の時で、元騎兵科の中将だった。ツェッペリン飛行船は硬式飛行船で、それまでの軟式飛行船(ガスを入れた袋の下にゴンドラを吊り下げた構造)と違い、しっかりとした金属製の骨組みの船体の中にガスを入れた袋を入れて浮力を保つ。軟式飛行船は布製の袋でブヨブヨだけど、硬式飛行船は金属製の骨組みでしっかりと形を保つことが可能で、大型化するのに好都合である。

ツェッペリン伯爵
1898年、伯爵はシュツットガルトに会社を設立し、飛行船の建造を開始した。そして、1900年7月2日、「ツェッペリン伯1号」(LZ-1)と命名された飛行船が最初の飛行テストを行った。全長128m、直径11.7mで、1万1300?の容積で、それだけの量の水素の浮力は1万2250kg以上あったが船体、エンジン、バラストなどだけで相当な重量だったので積載許容重量は300kgしかなかった…。そのため18分間、5キロ半の飛行は期待を裏切る内容だった。資金を使い果たしてしまった伯爵はやむなく会社を解散して飛行船を解体するしかなかった。
それでも伯爵はあきらめず、国王も宝くじの収益金で援助に乗り出し、伯爵も妻の故郷の土地を抵当に入れたりして何とかLZ-2の建造にとりかかる。しかし、1906年1月、たった1度の飛行試験の後、強風によって飛行船は破壊されてしまう。しかし、5月には再び、宝くじの収益金やプロイセンのカイゼルからの恩賜金などでLZ-3の建造が開始される。LZ-2の事故から得た教訓から2対の水平安定板を船尾に取り付けてあった。LZ-3は成功で、2時間17分の飛行で時速39.4kmを記録した。しかし1908年8月4日飛び立ったLZ-4はシュツットガルト南西の小さな町エヒターディンゲンの野原で火災事故で焼失してしまう。
この事故で伯爵はもう自分の飛行船が2度と飛行する事はないだろうと落胆したが、伯爵の不屈の精神と部分的な成功はすでにドイツの国民的なヒーローになっていた。寄付金も今までの10倍以上も集まった。その後、伯爵はエヒターディンゲンの事故の事を「グリュックリヒステ・ウングリュックスファールト(この上なく幸運な不運の飛行)」と呼ぶようになる。
しかし、当初から軍用を考えていた伯爵は、軍が実情では軍用にはならないとして支援を打ち切ったので、軍が興味を示すまでの間、民間市場へ目を向けることにした。こうして「ドイツ飛行船運輸会社(ドイッチェ・ルフトシファールツ・アクティーン・ゲゼルシャフト/DELAG)を設立し、1910年に操業を開始した。
第1次世界大戦では未熟ながら戦争に利用されたが、戦局を左右する程の兵器とはならなかった。
第1次世界大戦後の1928年、ようやく再生ドイツで新たなツェッペリン飛行船が建造された。(1917年にツェッペリン伯爵は79歳で亡くなっていた)この飛行船は伯爵の生誕90周年にちなんで「グラーフ・ツェッペリン号(グラーフとはドイツ語で伯爵の意味)」と名付けられた。それまでに建造された飛行船のなかで最大級で、全長236.2m直径33.7mもあった。燃料が経済的で航続距離が1万kmと当時の飛行機とは比較にならないという利点を生かし、グラーフは1929年に3回の着陸で世界一周に成功し、1932年からはドイツとブラジルの定期航空に就航した。1936年までに58往復の飛行を無事故で完了した。

LZ-127ハグラーフ・ツェッペリン号 飛行船
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